English Website

 

鈴木ナオミ
 





 

イギリスロンドン在住。福岡県田川市出身
プロデューサー、歌手、女優、司会者としてヨーロッパで活動中のマルチタレント。
 
BBCニュースでもレポートされ、『イギリスで最も有名な日本人シンガー』と現地で報道される。
2015年3月 日本人初のイギリス国会議事堂でのコンサート(東日本大震災追悼コンサート)
を成功させ、日本のメディアからも注目を集めた。
 
2012年『AJ Unity』としてリリースされた『Sweet Roses』が全米ラジオチャート14位を記録。
全世界1400のラジオ局の投票では3週間連続で1位を獲得。
過去イギリスダンスチャート12位にランクインし、『世界に挑戦する初の日本人シンガー』としてBBC放送がドキュメンタリー番組を放送。これらの活動は欧米で話題になり、今なお世界へのチャレンジを続けている。
 
東日本大震災以降、数々の復興支援ソング、支援CDを発表。『音楽で生きる力を!』をテーマに、
現在も被災地に度々足を運びコンサートを開催して被災者を励ましている。
2016年 熊本震災チャリティージャパンツアー開催。
また、ネパール外交関係樹立60周年記念行事としてネパール地震1年メモリアルコンサートにネパールの人気シンガーと出演するなど
音楽を通じた支援活動を積極的に行っている。
 
ロンドンから日本に向けて、ロンドン情報を発信するラジオ番組「ナオミのLONDON CALLING(日本7カ所のFM放送局)」の
パーソナリティーを務める傍ら、毎年7万人以上を動員する『英国ジャパン祭り』の総合司会を初回から8年間担当。
 
世界映像博覧会でNHKのプレゼンター、MTVの番組宣伝プレゼンター、オリンピック関連イベント司会、
もしもしにっぽん in Londonの司会、松竹歌舞伎のレセプション司会を勤めるなどプレゼンターとしても活躍中。
また女優として英国の名優ヒュー•グラントと映画で共演。ヨーロッパのTVコマーシャルや、英国のドラマなどにも出演する。



鈴木ナオミ 波瀾万丈ストーリー
 

鈴木ナオミの波乱万丈ストーリーはここから始まる。

日本でなんちゃってアイドルとして、アニメの主題歌やコマーシャルソングを歌っていたりしたある夏の日。イベントコンサートでロッや外国の歌をぶっちぎれて歌っていたらイギリスのレーベルのプロデューサーが近寄って来て囁いた。「イギリスでデビューしませんか?」恐れを知らなかったナオミは、「タダでイギリス旅行じゃん!」とウキウキ後先考えずにロンドンへやって来た。両親はひっくりかえった。ビギナーズラックで、UKダンスチャート12位になったりしたのに、母は、私が知らない国へ売られると思ったらしい。しかし、ビギナーズラックは所詮ビグナーズラック。日本のデビューガ決まった頃、日本へ凱旋売り出し企画の制作費1億円が、間に入ったプロデューサーによって、持ち逃げされるという事件発覚。いきなりの、ジエンド宣告だった。

 




鈴木ナオミリべンジは『ヒューグラントと共演』から始まる。

プロデューサー1億円持ち逃げ事件の後、日本の大手レーベルとの契約も立ち消えになり路頭に迷っている時、何気に受けたオーディションに受かってしまい、映画出演の話が舞い込んだ。それも当時大スターだったヒューグラントとの共演!オーディションでは、グラマラスで美人な女優さんばかりが集まり、「これは場違い!」と、一刻も早くこの場から立ち去る事を決断。プロデューサーの「君にとって愛とは?」の質問にふざけた回答をしたのが、ウケたらしい。その日の内にプロデューサーから合格!の電話があった。実際は一瞬の登場だったものの、8時間にも及ぶ、ヒューグラントとのベットシーンを演じた。

その後、シンドラーのリストやハリーポッターに出てくるRalph Fiennesという俳優さんとも共演。でも、英語があまりしゃべれず、「What is your name?」の質問にも「イエ〜〜イ!」しか答えられない。。これは「いかん!」と学校に通って猛勉強を開始した。!そしてまた事件がっ!! 続く。。

 


後2週間で日本に帰国命令!? 映画に出たと浮かれている場合じゃなかった。ビザ更新の為に、一時国外へ出てイギリスに戻って来たときに発覚。もうビザは延長できないので帰国せよ。と。。(当時ビザは空港で発行してもらえた)志半ばで日本になんか帰れない。それで急遽思い立ったのは、アーティストとしての経験を生かして、制作&日本のアーティストのイギリスの活動を支援する会社を設立すること。そしてこの窮地を切り抜けた。会社設立当時、宇多田ヒカル、矢井田瞳、小柳ゆき、黒夢、Luna SeaのSUGIZOらの活動をコーディネートした。その後も、日本のテレビ番組やCMの依頼、オリンピックの仕事までがどんどん入って来て、もう歌なんで歌っている場合ではなかった。このまま、歌をやめてしまうのか...
 

   


設立した会社は忙しくなったものの、日本のトップアーティストのスタッフとして仕事をすることに葛藤はあった。むしろ『嫉妬』と言った方が正しいかもしれない。自分がステージに立ってない事への嫉妬。あるアーティストのレコーディングの日、マスターテープ(後に1位になったアルバムの素材)が不明になった。その時「そのまま出てこなければ良い。」と一瞬でも思ってしまった自分を恥じた。情けなかった。コーディネーター、経営者としてプロ意識が持てない自分を心底嫌った。そこから決めた。「今までの自分を捨てよう。自分はもうステージに立つ事を望むまい」と。。。トップアーティストの裏方のプロとして生きて行こう。その時から私は、アーティストの部品になることに集中した。そして関わったアーティストは皆スターダムへと上り詰めて行った。だけど、やはり歌う事は止められなかった。細々と、「ナオミ劇場」なる小さなショーを開催して、ロンドン在住日本人に楽しんで頂いた。もうそれで良かった。。そして遂にこんな依頼が!! 

 

<カーペンターズのリチャードの伴奏で歌を歌ったっ!の巻☆> 
 


歌を諦めた頃、リチャードの日本での番組出演のお手伝いをすることになった事をきっかけに、グラミー賞に同行し、カーペンターズのご自宅まで行く事になったことには、天変地異かと思った。そもそも、リチャードとの出会いのきっかけをくれたのは、「日本で故ダイアナ妃の写真、ドレスの展覧会を開催したいので、オーガナイズして欲しい」と私に依頼して来た日本の制作会社だった。以来内容は王室オフィシャルのカメラマンとの契約。妃が亡くなる直前までドレスを作り続けた妃のお気に入りのデザイナーのドレスの展示。ハードル高過ぎっ!!と思ったけど、駄目な気はしなかった。サロンへ押し掛け直談判で、その日の内に契約を取り付けた。結果2年間、日本全国14カ所 123日間で のべ23万人を動員の大成功の展覧会となった。(その時に制作したBGMが後のAJ Unityの楽曲となる)

話は戻るが、リチャードカーペンターが、取材の後、「ナオミは何が歌えるの?」と、そこにあったピアノで私の為に、”I need in love“という曲を伴奏してくれ、その伴奏で歌ったのだ!!こんな奇跡が起こる事は想像していなかった。最後、興奮してわけのわからないことを口走ると、やさしく「やったじゃなか!よくできたよ」とお言葉まで頂いた。(その映像は最後にご紹介)リチャードカーペンターと仕事できたし、もう心の中で「成功」という言葉が自分を取り巻き、満足感の中で有頂天になっていた。恐ろしい病魔が襲いかかろうとしている事も知らないで。。
 



それは突然にやってきた。ホラー映画の特撮かと思うような肺からの大量出血。口からゴボゴボとその血液の量は尋常じゃなかった。結核を疑われ隔離される。検査の結果、ガンや結核ではなかったが、肺に疾患が見つかり、その後現在に至るまでも、ちょっと免疫が落ちると出血と肺炎を繰り返す。発症からしばらくして症状が激しく寝たり起きたりの頃、アメリカのプロデューサーから突然『ナオミの歌をアメリカでプロデュースしたい』と連絡があった。ダイアナ妃展の会場BGM用で制作したアルバムがイギリスで評判が良かったので、イギリスでリリースしたら、イギリスの新聞や雑誌で話題になっていた。その噂を聞いたという。体調がそれどころじゃなかったので返事できてなかったら、数ヶ月後そのプロデューサーがロンドンに会いにきてくれたのには驚いた。『ダメモト』・・この時ほど、この言葉がぴったり来た事はない。任せる事にした。翌年、アメリカでリリースの1ヶ月後100位、そしてレディーガガ、ビヨンセをぐんぐん抜いて、全米ラジオチャート14位になっていた。全世界1400カ所のラジオ局の投票ではなんと3週間1位になった。全米リリースの前、体調は良くなかった。そして、遂に自力で起きていられないくらいの状態に。病院に担ぎ込まれ医師に緊張が走る。意識レベルの低下の中、あの忌まわしい、3.11が起こった。そして1通のメッセージが、、、
 


『ナオミさんの歌で被災地を救ってください』3.11の直後、突然見ず知らずの人からツイッターで送られたメッセージにはそう書かれていた。その時私は、肺からの大出血に加え、白血球の異常減少で免疫不全と肝機能障害で瀕死の状態だった。私に何ができるのか。。「そうだ..死ぬ前にもう一度CDを残したい。。それが被災地の人たちに役に立つのなら。。」その決心から『生』への執着が蘇った。命をつなぎながら、被災者の皆さんの思いを作文にしてもらい、それを歌詞にした。必死で楽器を、、歌をレコーディングし、ロンドンの皆から書いてもらった寄せ書きと一緒に完成したCDを届けたときには、病気は回復していた。音楽の力は生命を蘇らせる事ができる。私は生かされた。そう確信した。その後これまでロンドンから45カ所の被災地の施設を慰問した。非難される事もある。身内も理解できない事を他人が理解できるはずもない。私の決心は、歌でお金を沢山稼ぐ事でも「歌で励ましてあげる」のでもなく、願いは私の声が世の中のお役に立つこと。それだけなのです。私にとって生きるという事はそういうことなのです。

もっと子供たちやお年寄りや被災者の皆さんに寄り添って歌を歌いたい。

祖国から遠く離れたこのイギリスで日本の事を思ってくれる人達の思いを伝えたい。

日本とイギリスの掛け橋になりたい。

その思いが遂に、イギリスの国会に通じた。2015年、3月。英日議員連盟のオファーで東日本大震災追悼コンサートとして、英国会議事堂にて日本人初のコンサートを成功させた。 被災地のNHKのワイドショーにも出演した。





そして、2015年、世界中に住む日本人の言葉〔日本のチカラ、日本の文化、日本への思いなどを募集)を集めて、イギリスで開催される日系最大のフェスティバル『ジャパン祭り』のテーマソングを制作。BBCで放送された。

音楽の力を信じて。。そして今日まで生きてこられました。歌を歌わせてくれる皆さんに感謝。生かされている事に感謝です。そして明日へ明日へと命を繋ぎながら行けるところまで行ってみたい。最後に夢は「紅白歌合戦」!集大成です。これからもナオミヒストリーは続きます。。